中世肩脊郷の遺跡

肩脊地区周辺地図


堀の内館跡


明瞭に残る堀の跡


肩脊本村のほぼ真ん中に堀の内と呼ばれる一角があります。
   南北に細長く広い田があり、周囲の田が一段低く堀状を形成しています(東の田は現在埋められて道路になりました)。
この場所は中世の館跡と考えられています。
周囲を囲んでいた堀の跡が今でも残っているのです。

戦国時代、肩脊に中村弥八という土豪がいた事が知られています。
現在も堀の内周辺に仲村姓の家が多くあることから、堀の内の館に仲村弥八がいたのではないかとの説もあります。


うつんじ山の宝篋印塔


近くに、うつんじ山という小山があります。
周囲には室町時代の宝篋印塔などの石造物が多くあります。
無在寺(うだいじ)という寺があったとされています。
今は埋められましたが、うつんじ山の南にも堀がありました。
うつんじ~堀の内にかけて堀がつながっていて中世肩脊郷の中心地の防御を固めていた可能性もあります。
肩脊には中世山陽道の支道が通っていたとされ、人馬の往来の多かった事が予想されます。
これらに対して、にらみを利かせる意味でも堀や土塁のある館は効果的であったと思われます。
まるで一つ奥に入った谷にある御所の内を守るかのように・・

御所の内


御所の内と尾原井の井戸



宮池の下の辺りの地形を見ると、周囲よりやや高くなっている田があります。
このあたりを御所の内と呼んでいます。
その名前から、中世の館跡ではないかといわれています。
周辺から、鎌倉時代~室町時代の土器や宋銭が多く出土しています。
貴重な品であった中国の宋の青磁器の破片も出たそうです。
このことから、位の高い人物がいたことが推測されます。

尾原井の井戸


御所の内の一角に、ポツンと古い井戸が水を湛えています。
尾原井の井戸と呼ばれています。
「どんな干ばつの時も決して干からびた事がない」と伝えられています。
「殿様のお姫様が化粧水に使った」との伝承もあります。
また、尾原井とは大祓(おおはらい)の神事にちなむ名前とも思われます。

白拍子の井戸


これとは別に、肩脊城の南下に「白拍子の井戸」と呼ばれる井戸もありました。(消滅)
白拍子とは平安から鎌倉時代に流行した歌謡です。
また、それに合わせて踊る遊女のこともさします。
源義経の愛妾の静御前が有名ですね。
御所のあるじに伴なって、白拍子がいたのでしょうか?


安楽寺 層塔の軸部


近くに安楽寺という地名もあります。
区画がはっきりしませんが、寺院があったと推測されます。
寺院の名残と思われる石造物が残されています。


こうして見てくると、肩脊には中世の遺跡が豊富にあります。
また、伝わる地名もまるで京の都のように雅なものが多く注目されます。
御所のあるじはいったい誰だったのでしょうか?
平安時代にはおそらく平氏の一門がいたのではないでしょうか。
鎌倉初期にも肩脊郷は東大寺再建にかかわる文書に出てこないことから平氏の残存勢力がいたと思われます。


沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす


かつては雅な風情であったろう御所の内一帯も現在は殆ど水田になってしまいました。
わずかに往時を偲ばせるのは尾原井の井戸に映る空の色。諸行無常のはかなさを感じずにはいられません。


○参考文献
『瀬戸町誌』