肩脊城を北から望む
肩脊の本村集落後方にそびえる城山(志路山、天神山)の山頂に肩脊城が築かれています。
肩脊城には宇喜多家の重臣である岡豊前守、越前守の親子が居城したといわれています。
標高74メートルの南北に長い山頂を加工して築かれています。
岡山城のような華麗な石垣はなく、素朴な砦です。
村の真ん中にある手ごろな高さの山ですので、城を築くには打って付けのところです。
巨大堀切・・実は重機で切り開かれた道(笑)
大鳥居地区の集会所から南東へ向かうと大きな堀切のような切り通しの道を通り、右手に墓地が見えます。
その墓地の一番奥から山道が登っています。
森本基嗣氏『岡山の山城を歩く』(吉備人出版、2002年)には先程の切り通しの道を肩脊城の堀の跡と紹介していますがこれは間違い。
肩脊の古老によると「重機を使って道を通した」そうです。城跡ファンのロマンを壊しましたか、スミマセン。
山道を登りながら、北を見上げると物理城(もとろいじょう)、東を見ると高尾城の姿が確認できます。
『改修赤磐郡誌』では高尾城と肩脊城を本城、出城の関係にあるか?とし、物理城も肩脊城を本城とするなら北の防御に兵を置くところだとしています。
いずれにしても、ごく近い距離に3つの城が集まっているということは注目すべき事実でしょう。
通称二の丸に建立されている石碑
瓦厨子
山頂には幾つかの曲輪が残されています。
山頂の平坦地に瓦厨子が祀られ、「肩脊城跡」の石碑が立っています。
瓦厨子はもともとあった場所から移動しています。誰が動かしたのか謎だ・・
東側の竪堀の遺構。岸のむこうに主郭の平坦地が広がる
一箇所、東西に竪堀があり、切岸で一段高くなったその南に広い平地があります。
『瀬戸町誌』ではこの広い平地を本丸、北の丸い曲輪を二の丸としています。
『改修赤磐郡誌』、『瀬戸町誌』には本丸に土塁や天守台の存在を記しています。
なんとなく高まりがあるようにも思えますが、現状でははっきりとは確認できません。
戦後の頃、この城跡の平地を開墾して果樹園にしていたそうです。
やたらと地面が波打っているのですが、これがその当時の畑の畝の跡でしょう。
本丸内の遺構は開墾によって破壊された可能性もあります。
肩脊城は宇喜多氏の重臣、岡氏が居城したとされているものの、それに似つかわしくない素朴さを持ったお城です。
岡氏が肩脊にいたとしても一時的なもので、継続的には居城していなかったのではないでしょうか。
築城から数百年の年月を経た今、肩脊城はふもとの集落を静かに見守っています。