金剛童子


鳥居があるから神社だと思う無かれ



吉井川西岸、南方から大内へ抜ける道を谷へ入ったところに金剛童子社が祀られています。
一見ふつうの神社っぽいのですが、実はかなり複雑な信仰が入り混じったスポットなのです。


金剛童子拝殿


もともとは吉井川を行く船が難所である五本松の下を通るとき、船頭が安全を祈っていると必ず霊光が現れて船を導いたことに由来します。
船頭たちは船霊さまとして、五本松のところに祠を建てて祀ったそうです。
その後、理由は定かでありませんが天正年間(1573~1591)三谷山の上へ祠を移し、この時に妙興寺(瀬戸内市長船町福岡)の僧が「金剛童子」と名づけたとされています。
現在も祭りの際には妙興寺の僧がやってきて拝んでいます。
神社なのに坊さんが拝むのは、昔の神仏習合の名残です。
なぜ船霊さまが金剛童子となったのかは不明ですが、推測するに初期は船霊さま=水の神=ゴンゴウ(河童)と結びついてゴンゴウ様と呼ばれていた可能性もあります。
それがゴンゴウ=金剛と結びついたのではないかとも思われます。


拝殿内の様子



その後、村のものが山の木を刈ったところ山が鳴動して止まなくなり、祟りだとして清流の流れる現在の場所に社殿を移したところ山は治まったそうです。
現在の位置に移ったのは、棟札に1746年のものがあるのでそのころと思われます。
1707年に宝永地震(東日本大震災以前では史上最大の地震)が起こっています。
南海トラフ沿いの巨大地震です。岡山でもかなりの揺れがあったことでしょう。
山が鳴動して止まないとは、あるいはこの地震のことを指しているのではないでしょうか。

また、船霊さまは女性器をあらわす神で、そこから女性の病(ヒエ病)の神としてもご利益があるとされるようになったようです。
かつては関西方面の花柳界から多くの参拝者があったそうです。


本殿と三猿




くくり猿



さらに、ヒエの神様=日枝(ひえ)神社と結びつき、日枝神社の使いである猿が祀られるようになったようです。
現在も参拝者が布で作った「くくり猿」を奉納しています。


お子様の守り神



また、ヒエは下半身の病であることから、子供のおねしょにもご利益があるとなって、転じて子供の守り神ともされています。
こうなってくると神様も人間の願い事の多様さに困っておられるのではないかと心配になりますね。

金剛童子には、岡山市出身の随筆家である内田百閒が子供のころ、祖母に連れられ3度訪れています。
境内には百閒の句碑も建てられています。


うららかや藪の向こうの草の山     百閒



○参考文献
『瀬戸町誌』
『せと町の民俗』