瀬戸町と熊山町の境界近く、桃源郷の如き山里、山の池地区に戦国の主従が静かに眠っている。
時は室町、足利将軍家の権勢は乱世に消え、備前平野にも戦国の幕が切って落とされた。
備前西部に一大勢力を築き、その名声を遠く京まで響かせることとなる松田氏。
その礎を築きながら、志半ばで戦国の露と消えた悲運の名将がいた。
松田元成。
そして最後まで忠誠を尽くしながら、力及ばず主君の後を追った忠臣がいた。
大村盛恒。
富山城にいた松田元成は、備前守護職である赤松氏の配下として備前守護代となっていた。
国政を取り仕切りながら勢力を増していった元成は、居城を御津金川に移す。
城下には七曲神社、妙国寺を造り、文武にその力を示していた。
その力を疎ましく思った主家赤松氏は、難癖をつけて松田氏を改易しようと画策していた。
その動きを察知した元成は、
「主家とはいえ、祖先伝来の領地から改易を申しつけられる所以はない。力及ばずとも存亡を一戦にかけて決する」
と、赤松氏に反旗を翻すこととなったのである。
文明15年(1483)、世に知られる福岡合戦の火蓋が切られた。
元成は、宮島参拝にかこつけて、かつて赤松氏に敗れ領地を追われた経緯がある備後の山名氏と連合軍を形成する。
目指すは備前守護所のある堅城、福岡城。
元成は塩納の妙見山城を拠点とし、軍勢を南へ動かし、肩脊方面へ物理城、高尾城、城ヶ辻城と進軍する。
山名勢も中国各国から加勢を得ながら西から進軍、大日幡山城に陣取る。
赤松方も浦上勢が福岡城に篭城、吉井川を挟んで小競り合いをしながら両軍が対峙すること50日。
浦上軍は赤松氏に援軍を要請したものの、赤松軍は援軍を備前に向かわせず但馬の山名援軍を撃破に向かう。
それを見切っていた松田・山名軍は播磨で赤松の援軍の軍勢を撃破。
援軍来ず、の知らせに士気が低下した浦上軍は福岡城から逃亡、松田・山名軍は勝利を収めることとなった。
翌年、元成は浦上勢の守る三石城へ兵を繰り出した。
その途中、吉井川の東、天王原で浦上軍と再び雌雄を決することとなるのである。
山の池、墓所への標識。後方の谷が元成自害の地とされる光長寺跡。
汚名返上に燃える浦上軍に猛反撃を受けた松田軍は思わぬ苦戦を強いられた。
軍勢は傷付き、倒れ、散り散りとなってしまった。
元成は山の池へ退き、軍勢を立て直そうと決意する。
吉井川西岸を大内、南方の龍ヶ鼻へ北上、ここで反撃を試みるも、態勢は変わらず家臣の安藤某が戦死。
家臣の大村盛恒は、救援を要請するため出雲の尼子氏を頼って馬を走らせる。
しかし浦上の軍勢は勢いを増し、砦としていた千種山の草木は血で染まり(血草山の伝承)、山の池へ登る途中でとうとう矢も尽き果てる。(矢無坂の伝承)
命運潰えたことを悟った元成は、山の池の光長寺で自害、悲運の最期を遂げる。
山の池に盛恒が到着したのは、既に元成自害の後であった。
主君の後を追い、盛恒もまた自害して果てたのであった・・
青空を矢無坂付近から見上げる(勘定口池の下あたり)
元成の子、元勝(元藤)は父と忠臣の菩提を弔うために山の池に二人の墓と立雲山大乗寺を建立した。
元成急死の後を受けて、元勝はよく勢力を拡大した。
さらに時代は下がり、元勝の子、元陸(元隆)のころには松田氏の勢力は備前一円に轟き、大永2年(1522年)元陸は京の都で京都所司代に就任する。
しかし、盛者必衰の理り、浦上宗景、そして宇喜多直家の台頭によって松田氏は勢力を殺がれていき、秀家の時代になり備前平野の戦国時代は幕を閉じていくこととなる。