俊乗房重源関連史跡

万富で東大寺瓦を焼いた俊乗房重源。
瀬戸町内には重源に関わる史跡が多く残されています。


俊乗房重源施湯跡推定井戸(旧瀬戸町指定史跡)


重源は自らが記した「南無阿弥陀仏作善集」に湯屋や念仏堂を建てたことを記しています。
東大寺瓦窯跡に近い保木地区の一角に石垣に作りこまれた井戸が残されています。


風呂屋の井戸



この一角は「風呂屋」という地名で、重源が湯屋を建てたのではないかと推定されています。
近くに「堂の本」の地名もあり、念仏堂があったのかもしれません。


南方金山製銅跡(旧瀬戸町指定史跡)



南方地区の山すそ、金山に円墳状の高まりがあり、瓦厨子が祀られています。
「かずら地主」と呼ばれています。
この高まりは銅を精錬した残りかすを積み上げたものなのです。
付近に銅坑跡が3か所あり、平安末期から鎌倉初期の銅鏡が出土しています。
ここは重源が銅を採掘した跡とされています。
東大寺大仏を再興するには、大量の銅が必要でした。
東大寺瓦窯のすぐそばに銅鉱があるとなれば、重源が放っておくわけがありません。
ここで掘り出され精錬された銅は東大寺瓦とともに奈良へ運ばれ、東大寺再興に使用されたのです。


ひ爪神社



吉井川の難所、保木地区に祀られている神社です。
東大寺瓦は吉井川の水運で運ばれたとされています。

ひ爪神社拝殿




ひ爪神社本殿



この神社には、珍しい姿の石製狛犬がありました。
中国の宋の様式で作られています。
東大寺に重源が奉納した石製狛犬と同様の様式です。 このことから、ひ爪神社は重源が吉井川の水運の無事を祈って祀ったものと思われます。


阿保田神社



東大寺瓦窯跡の北に鎮座する神社です。
東大寺瓦を焼く際に、東大寺の守護神「手向山八幡宮」をこの地に勧請したとのことです。


阿保田神社随神門から拝殿



境内は広く、東大寺瓦の破片が採集されています。
神社だけでなく、瓦窯の管理施設等があったのかもしれません。

阿保田神社本殿



本殿は火事で消失、再建されたものです。
コンクリート製ですが、これはこれで趣がありますね。


参考 中津山願興寺 本尊千手観音像



万富から山を一つ南へ、中津山願興寺があります。
本尊はなんと天才佛師、安阿弥こと快慶の作と伝えられています。
建長年間(1249~1255)にもとの本尊が盗まれた後、安阿弥作の千手観音を入手し本尊としたとされています。
なぜここに快慶仏が?と疑念がわいてきますが、あながち眉唾ものでないと思わせるのが重源と快慶の関係。
快慶は重源と深い関わりがあったとされ、重源による復興東大寺へも多くの仏像を納めています。
南大門の金剛力士像は有名ですね。
重源によって瀬戸町の寺に快慶仏がもたらされていてもまったく不思議ではありません。
願興寺に千手観音がやってきたのは重源が東大寺瓦を焼いた時代から50年ほど後ですので、願興寺に直接重源によってもたらされたものではなさそうです。
思うに、瓦窯跡のある大寺山に東大寺別院があり、そこに快慶仏がもたらされたのではないでしょうか。
その後この寺が廃れてきた時に願興寺の本尊が盗まれ、ちょうどよい仏像が近くにあると入手してきたものとも考えられます。
この仏像は秘仏であるため調査もされていませんが、後学を待ちたいところです。

○参考文献
『瀬戸町誌』